福岡県久留米市の中学明善校(現明善高校)OBの竹村逸彦さん(89)=東京都町田市=が、戦前戦後につづった日記を「軍国少年日記」として久留米市に寄贈した。1945(昭和20)年8月11日、214人が犠牲になった久留米空襲など、壮絶な体験が14歳の目で詳細に記されている。 【写真】ノートにびっしりつづられた日記
七月三十一日(火)曇
腹痛のため欠席す。工場に行き出して初めての欠席。九時半頃までは(六時頃より)一時間に二回位づゝ便所に行ったが、それ以後は、寢(ね)るまでに二回便所に行っただけだ。午後はほとんどよくなった。工場で餘(あま)りに水をのんだせゐだらう。しかし、それ程(ほど)ものんでいない。 生(うま)れて初めて梅肉エキスをのんだ。小さい時よくのんだゲンノショウコににた臭(におい)をもっており、のんでみて体がふるへ上(あが)るほど、すっぱい。 夜中警戒警報 九時四十分空襲警報 一時半解除 二十一時警戒警報
八月一日(水)晴後曇
今日も欠席。殆(ほとん)ど良くなったが、まだ下痢する。十二時以降は全く通じはなくなった。 今頃の敵機は主として小型機(本州沖に近づける敵機動部隊の艦上機及(およ)び沖繩(おきなわ)基地より出たもの)である。 今日より、福岡地区は西福岡と東福岡とに分(わか)たれることになった。久留米は西。 またペン字のくづし方をけいこする。 母、北野に野菜の買ひ出しに行く。 十時就寢(しゅうしん)。 二十三時警戒警報 六時半警戒警報 九時半警戒警報
八月二日(木)晴後曇
今日は養生のため欠席。 母は晝(ぴる)から買ひ出しに行ったので、一人でぼんやり一日をすごした。きのふよりは力が出る。今日は、ほんとうに久しぶりに警戒が少なかった。 國武(くにたけ)さんから「街角の理科研究」をお借りした。 二十三時警戒警報 【注釈】1945(昭和20)年8月2日の西日本新聞には、西部軍管区司令官のラジオ放送内容が掲載されている。見出しは「敵機来寇(らいこう)・今や遅しと待つ」「未曽有の国難に奮起も未曽有」「九州に一千萬特攻隊員」。未曽有の国難にどう対処すべきか、答えは「簡単である」として、「国民の奮起また未曽有なるべし、これだけである」と述べている。 また、鎌倉時代の元寇(げんこう)(文永・弘安の役)を例えに、日本が勝利したのは「神風か、神風のみではないと私は思う」として「防衛が強かったからだ」と主張。「われらは死んでも死んでも死んでもやる。七度どころか八度、十度、百度でも生まれ変わり、死に変わり、何度までもやる」と戦意を鼓舞している。 ※福岡県久留米市出身の竹村逸彦さん(89)が14歳だった1945年に書いた「軍国少年日記」を、できるだけ原文のまま掲載しています
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August 14, 2020 at 08:28AM
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「今日より、福岡地区は西と東に分たれる」14歳がつづった戦争の日常(西日本新聞) - Yahoo!ニュース
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