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荒涼たる「番外地」から、どうやって愛される存在に テレ東にみるサバイバル物語 - J-CASTニュース

   テレビ東京は、現在ある在京キー局の中で最も遅くに誕生した。本書「攻めてるテレ東、愛されるテレ東 『番外地』テレビ局の生存戦略」によれば、いまでは最も愛されるテレビ局と評価されている。

   もちろん、誕生時からそうだったわけではない。教育専門局としてスタートしたが、ずうっと苦境続き。総合局になってからも長らく「番外地」状態を抜け出せなかったが、ニッチ狙いの独自のアイデアとやりくりで這い上がり、成功させた。その目の付けどころや取り組みは、起業を目指す人、4月からの新社会人らにとっても、なんらかの指針の一つになりそうだ。

「攻めてるテレ東、愛されるテレ東 『番外地』テレビ局の生存戦略」(太田省一著) 東京大学出版会
  • 東京12チャンネルは創業のころ、東京タワー近くに社屋を構え「東京タワーの横の箱」といわれた

    東京12チャンネルは創業のころ、東京タワー近くに社屋を構え「東京タワーの横の箱」といわれた

教育専門局としてスタート

   テレビ東京の開局は、最初の東京オリンピックが開かれた1964年。この年には東海道新幹線など五輪のためにさまざまなインフラが整備されているが、テレビ東京の開局はオリンピック関連の出来事ではなかったようだ。

   大会期間中には、教育専門局としての通信講座を継続する一方で、1日12時間を集中的に競技中継にあてる特別編成で臨んだという。

   当時の局名は「日本科学技術振興財団テレビ局」。冠にある財団が母体だ。科学技術の普及と宣伝のため政財界が協力して1960年に設立され、その目的達成の一環として同年にすぐ電波免許の申請を決めた。在日米軍がレーダー用に使っていた「12」チャンネルが割り当てられたことから「東京12チャンネル」という通称がつけられた。

   開局年の五輪中継の特別編成は別として、東京12チャンネルは科学教育専門局として、放送の内容は科学技術教育番組が60%、一般教養番組15%、教養・報道番組25%と構成比率が厳しく定められていた。

   娯楽番組などを挟む隙などなかったが財団側は、マジメで良質な番組を作れば、それなりの視聴率をとり採算もとれると考えていた。ところが番組はことごとく低視聴率。おまけに2年目の65年には「オリンピック不況」に見舞われ企業の業績が軒並み悪化した。東京12チャンネルも例外ではなく、開局翌年に早くも経営危機を迎えてしまった。

NHK傘下入り構想

   危機対策に打ち出されたのは放送時間の短縮と人員整理。そして、科学技術放送に徹することと営業活動をしないことが提案された。じつは、これらのことは再建策の「切り札」を実現させるための準備。それは東京12チャンネルをNHKの傘下に入れてしまうことだった。

   すでにあった教育チャンネルを報道専門に衣替えし、12チャンネルを教育チャンネルに据え、総合を合わせてNHKを3チャンネル体制にするという構想だ。その実現を見越して営業活動を停止し、人員整理を打ち出したのだった。

   ただ、この「NHK構想」をかなえるためには、放送法の改正が必要。改正案は国会に提出されたが、労働争議に発展するほどの激しい反発もあり、審議されないまま廃案になってしまった。

   東京12チャンネルの経営再建は、NHKの傘下入りがかなわず仕切り直しに。ちょうど1960年代後半~70年代前半にかけては、新聞社による在京民放の系列化の動きが進んでおり、電波行政に強い関心と影響力を持っていた田中角栄首相(当時)の介在などで、東京12チャンネルと日本経済新聞が系列関係となる。

   日本経済新聞は同局の抜本的改革に乗り出し、財団による運営をやめて株式会社組織にすること、一般総合局に転換することを方針として決め、田中首相の後押しで、東京12チャンネルは再出発の態勢を整えた。

   73年11月に「株式会社東京12チャンネル」に局名を変更。総合放送局に移行して新たなスタートを切った。テレビ東京になったのは81年だ。

箱根駅伝は「テレ東」で放送していた!

   生まれ変わったとはいえ、すぐさま飛躍に結びついたわけではない。その後もしばらくは低迷の時代が続く。1980年代後半、当時のテレビ業界では「三強一弱一番外地」という言い方があり、それは視聴率を基準に区分けした。「三強」は日本テレビ、TBS、フジテレビで、「一弱」はテレビ朝日。「弱」にもなれない、遠くはなれた「5番目の民放」という意味で、テレビ東京は「一番外地」と呼ばれていた。

   「番外地」は、東京12チャンネル時代からの、いわば負の遺産。混乱の船出を経験したが、やっと「株式会社」「一般総合局」という条件が備わってきた。このあと、テレビ東京はさまざまなチャレンジをしながら道を開いて、「番外地」を脱していく。

   チャレンジ精神は、すでに「危機」のころにも発揮されていた。1968年に始まった「女子プロレス中継」はその一つ。同年11月21日には、中継した「世界選手権」が24.4%という開局以来の高視聴率をたたき出した。その後、週1回放送のレギュラー化され好調を維持した。同じころ、ドラマ「プレイガール」や「ハレンチ学園」もヒット。だが、お色気を売り物にする「過激路線」が問題視され、そのスケープゴートとして女子プロレス中継が打ち切られたという。

   音楽番組でも独自性を打ち出し、1968年に始まった「年忘れにっぽんの歌」はその原型で、大みそかの定番番組としてすっかり定着した。72年スタートのアイドル番組「歌え!ヤンヤン!」は、後継番組の「ヤンヤン歌うスタジオ」に引き継がれ、アイドル番組の老舗的存在になった。

   現在、テレビ朝日系列で放送されている「題名のない音楽会」は、元々テレビ東京で始まった。新年を彩る風物詩となった箱根駅伝中継は、じつはテレ東が「元祖」だ。さまざまな技術的な問題を克服して、1979年に放送をスタートさせたが、完全生中継ができるまでには至っておらず、87年からは技術で勝る日本テレビ系列に移った。

「孤独のグルメ」「きのう何食べた?」なぜ人気?

   本書は後半で、低迷の時代をバネに果たした成長したテレ東の様子をみている。テレビ東京の特徴として親しまれている「ユルさ」を分析し、オタク路線の軌跡をたどる。

   さらにはドラマ「孤独のグルメ」や「きのう何食べた?」などを個別にとりあげ、その成功の理由を探り、他局にはない独特の視点を指摘する。

   著者の太田省一さんは、社会学、テレビ文化論、ポピュラー文化論などを専門とする作家、評論家。著書に「中居正広という生き方」「社会は笑う・増補版-ボケとツッコミの人間関係」(いずれも青弓社)、「紅白歌合戦と日本人」(筑摩書房)、「マツコの何が『デラックス』か?」「芸人最強社会ニッポン」(いずれも朝日新聞出版)などがある。

   このサイズ(B6判)の書籍としては価格がやや高めだが、内容が濃い一方読みやすく、何かへの「挑戦」を控えた人の参考になる一方、テレビ関連のポップカルチャー史を知るうえでも価値ある一冊

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「攻めてるテレ東、愛されるテレ東 『番外地』テレビ局の生存戦略」
太田省一著
東京大学出版会
税別2400円

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March 14, 2020 at 02:07PM
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